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村上春樹と夙川|小西巧治

情報掲載日:

西宮芦屋研究所副所長などを務められている 小西巧治さん の寄稿文です。

小西巧治さんプロフィール

1948年 西宮市生まれ

神戸国際大学 非常勤講師「阪神間文化論」、西宮芦屋研究所副所長、阪神南都市型ツーリズム推進協議会委員、阪神南地域ビジョン委員会専門委員、阪神シニアカレッジ、西宮宮水学園、芦屋川カレッジなど自治体の生涯学習講座、NHK文化センター、朝日カルチャーセンターなどの講師を務める。

HP「村上春樹の西宮芦屋」開設、朝日新聞英文ウエブAJWのHanshinkan Kidシリーズ寄稿、新聞各紙への阪神間文化情報提供、NHKテレビ、関西テレビ、サンテレビ、ラジオ関西などの阪神間文化関連番組への出演など

村上春樹と夙川

夙川は西宮市内を流れる川で、六甲山系から流れ出て南北7キロに及ぶ。
大阪と神戸からそれぞれ電車で約 20 分のところに位置するが、阪急電鉄「夙川駅」やJR「さくら夙川駅」といった駅名もある。川堤のサクラは、日本のサクラの名所 100 選の一つに選ばれている。

村上春樹の作品「猫を棄てる 父親について語るとき」(2020 年)においても、冒頭から夙川や河口の御前浜(香櫨園浜)の少年時代の思い出が書かれている。
村上自身、「僕は戸籍上は京都の生まれだが、すぐに兵庫県西宮市の夙川というところに移り、まもなくとなりの芦屋市に引っ越し、十代の大半をここで送った。」(「辺境・近境」1998 年)と少年時代を振り返っている。

「夙川」という川はあるが、「夙川」という地名はない。しかし、夙川沿いに住む人たちには愛着があり、「夙川に住んでいる」と答えることが多い。関西で住みたい町ランキングでは、常に夙川近辺の地域が上位にランクされる。桜並木や野鳥のさえずりが四季の変化を伝え、川や周辺が都会のオアシスのような空間であるからだろう。

エッセイ「ランゲルハンス島の午後」(1986 年)では、夙川とそこに架かった石の橋のことを次のように書いている。

「僕の家と学校の間には、川が一本流れている。それほど深くない、水の綺麗な川で、そこに趣のある古い石の橋がかかっている。」

「辺境・近境」の写真編では、夙川オアシスロードと夙川に架かる石の橋、葭原橋(あしはらばし)について、「この橋はよく渡った。『ランゲルハンス島の午後』に出てくるのがこの橋。素敵な橋です。近々取り壊されるという話を聞いた。」とつづっている。

それから 20 年以上経っても、幸いなことに、この橋は、取り壊されずに、修理されて現在でも同じ場所に架かっている。

■大作家ゆかりの川
ところで、この夙川沿いは、ノーベル文学賞の候補、もしくは候補であったとされる大作家のゆかりの土地でもある。

少年時代の遠藤周作は、カトリック夙川教会の近くに住み、この教会で洗礼を受けているが、教会内でいろんな悪戯をしたことで有名である。

谷崎潤一郎は、関東大震災で関西へ居を移したあと、夙川の上流の苦楽園で、最初の妻千代と娘と数か月すごし、その後、三度目の妻松子夫人と出会った後、阪急夙川駅近くの松子夫人の夫の家に二番目の妻丁未子(とみこ)と住んだ。

その後、夙川沿いの風景を「細雪」「卍」などの作品の中に残している。

井上靖は新聞記者時代、夙川下流の川添町に住み、夙川沿いの風景を作品に描いている。この川添町には時代は異なるが、村上春樹が川の西側から東側に引っ越した時に住んだ場所でもあった。

また、作詞家の岩谷時子は、少女時代に夙川沿いに住んでいたが、後年、西宮市の広報誌「グラフ西宮」に「思い出の町よ」というタイトルで、次のような文を寄せている。「まだ、夙川を蛍が飛び交い、川の流れにめだかが泳いでいた、美しい叙情的な西宮の風物が、幼かった私のこころに根をおろし、後年、作詞家となる運命にみちびいたのではなかろうかと、今でも思うことがある。」

西宮市在住の大学教授で作家・翻訳家でもある毛丹青(Mao Danqing,)氏は、夙川は優れた文学を生みだす“巨大な装置”であると言っている。

「至近距離にある山と海をつなぐ水のきれいな川と河岸の緑地の木々、少し行けば海外に門戸を開く神戸という大都会もあるこの立地は文学を作りだすのにふさわしい土地である」というのが氏の主張である。

■夾竹桃の思い出
毎年、春のサクラの時期が終れば、夙川の川沿いは夾竹桃の季節を迎える。夾竹桃といえば、村上春樹の「ランゲルハンス島の午後」や「めくらやなぎと眠る女」、「ノルウェイの森」に出てくる花だ。桜の花は咲くとアッという間に散ってしまうが、夾竹桃は初夏から秋の終りまで、人に愛でられることもないまま我慢強く咲き続ける花である。

夙川の土手に咲く夾竹桃の花の色は幾つかあるが、真夏の太陽の下で見るどぎついピンク色が私の目には焼き付いている。

村上春樹が小学 3 年生の時、夙川の西側に香櫨園小学校は新設されたが、彼が6 年生の時に夾竹桃が校庭に植えられた。この夾竹桃は夙川の河口の西側にある回生病院の敷地内に植えられていたもので、村上少年を含む 6 年生全員が根のついた夾竹桃を道に引きずりながら校庭まで運びそこに植えた。

「めくらやなぎと眠る女」は、その後「蛍」という作品と合わさってベストセラー「ノルウェイの森」となるが、この作品でも同じ回生病院らしき病院が登場するが、以前の建物は取り壊されて今では新しい建物に変わっている。

阪神間の山の手には多くの病院があるが、海辺の病院はこの回生病院だけだ。春樹少年が住んでいた夙川の西側の家からも東側の家からも歩いて5,6分の距離にあった。

国道二号線の南から河口付近までの夙川の左岸は「オアシスロード」と呼ばれ、日本が高度経済成長期の真っただ中にあった昭和 46 年(1971 年)から自動車の通行を止めて歩行者天国になり、多くの人に愛されながら今年で 50 周年を迎えた。

神戸新聞 芦屋・西宮ウイーク

http://mt.kobe-np.co.jp/rentoku/movie/part02/201507/0008188733.shtml