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阪神間・都市と建築の記憶 3 -芦屋 ・「 住宅 都市」の系譜|川島智生

情報掲載日:

1芦屋の都市イメージ

芦屋海岸側・米軍空撮

芦屋の名前は住吉や御影、岡本、夙川など綺羅星のように高級住宅地が連なる阪神間のなかでもひときわ名高く、高級住宅地としては全国区のブランドになっている。

住宅地としての出発点は明治38(1905)年の阪神電鉄の開通にあり、明治40(1907)年には芦屋川の河原を埋立て、松林と公園からなる芦屋遊園地を村営施設でつくりあげていた。その後、この河川改修工事とリンクした耕地整理で川の両岸に住宅地がいち早くつくられる。そこには実業家たちの邸宅が1995年の阪神淡路大震災まで建ち並んでいた。海浜の別荘地の風情を多分に残したその環境に魅せられ、大阪から移住者が相次いだ。その背景には芦屋川河口の砂浜が海水浴場になっていたことも関連する。この海水浴場は大正前期までには開かれており、夏にはこの海辺はリゾート地になっていた。

大正期になると、国鉄の芦屋駅(大正2年)や阪神急行電車(阪急)の芦屋川駅(大正9年)の設置により、開発は海岸から山手方面に移り、いわゆる芦屋の山手イメージが成立する。大正10(1921)年に刊行された『武庫郡誌』よれば、「急勾配に傾斜せる丘陵性の土地と、此の川(芦屋川)とは、本村をして郊外住宅地として発展せしめたる主因をなせり」とある。「此の川」が芦屋川と判明する。海浜から川を遡上して住宅地は山手に広がっていく。

昭和に入ると、10年代には六麓荘、40年代には奥池、50年代には芦屋シーサイドと、次々と住宅地が生まれる。この町はこの百年間にわたって常に時代の先駆けとなる住宅地を開発してきた。このことを考えると、まさに日本を代表する住宅都市といってよいだろう。ただ戦後は経済の中心が東京に移っていく。昭和40年代以降は芦屋の邸宅建築のあるじたちの東京移住がはじまり、筆者が移り住んだ昭和50年代にはすでに空家になっていた建物も多かった。

現在に至る動きをみると、昭和26(1951)年の芦屋国際文化住宅都市建設法の制定にみられるように、自治体として積極的な良好な環境つくりへの姿勢が首尾一貫していることに特徴がある。戦中には中心市街地が空襲にあったが、海浜や山手の住宅地は被災しておらず、今後にむけての指針を戦後いち早く示したことは注目に値する。この法律制定の理由は「国際文化の立場から見て恵まれた環境にあり、且つ、住宅都市としてすぐれた立地条件を有していることにかんがみて、同市を国際文化住宅都市として外国人の居住にも適合するように建設」するために設けられたものである。当時は非戦災都市を中心に、観光関係特別都市建設法が別府市を皮切りに制定されたが、住宅に特化したケースは他にはなく、いかに芦屋市が特別な存在であったかがうかがえよう。

芦屋山手中学校

文化という点では、この時期芦屋市は文部省のモデルスクールに選定された山手中学校と宮川小学校を鉄筋コンクリート造校舎で建設しており、わが国の学校建築のモデルとなる。設計は設置間もない芦屋市建築課が担った。芦屋のような小規模都市で2校のモデルスクールを有した自治体は他にはなく、ここからもいかに芦屋市が先進的な取り組みをおこなっていたかがみてとれる。

昭和40年代の芦屋浜の埋立地を考えると、他都市と異なり、純粋に住宅地が目指された。この時期までは埋立地の用途は工場や倉庫がほとんどであり、そのような意味でも先駆的な試みであった。このような姿勢は現在にもつながっており、建築に関して市が独自に定めた厳しい条例があり、良好な住環境の保全に務めている。そのことは隣接する他都市と比較すると景観の上で顕著な違いを生じさせている。

2芦屋の建築遺産

1)現在の住宅

山邑邸

震災から26年が経過した現在、震災にも耐えて残った戦前期の建物もいつのまにか消えてしまっていることが多い。せっかく潰れずに耐えたものの、経済的な事情で持ち堪えられずに土地ごと手放されたものである。2021年3月の現在、芦屋に残る建築遺産を以下に紹介する。

筆頭は大正13(1924)年竣工の旧桜正宗当主の山邑太左衛門別邸で、アメリカ人建築家フランク・ロイド・ライト設計である。大正期の洋風建築では最初に国の重要文化財になった建物で、現在は淀川製鋼迎賓館となり一般に公開されている。尾根というロケーションを巧みに読み込んだ独特の構成は他に類例のみないもので、みる人に忘れられない印象を残す。山邑邸とは芦屋川の渓谷を挟んで川向かいにあるのが銀行家山口吉郎兵衛邸である。現在の安井建築設計事務所の創業者安井武雄が昭和7(1932)年に設計した建物で、現在は滴翠美術館となる。東洋趣味がモダンデザインと融合した安井独特の意匠がみられる。

安井の設計した建物はもう一軒現存する。芦屋神社の近くにある旧横田邸である。山口邸が鉄筋コンクリート造であったのに対して、横田邸の構造は木造であるが、意匠は共通して、ここでもモダンデザインに東洋趣味が用いられる。洋館と和館からなったが和館は数年前に解体されている。

芦屋神社の北側に山手緑地という公園があり、そこは震災前までは松風山荘とよばれた大規模住宅・藤井邸であった。昭和11(1936)年に建設され、洋館・和館からなった。現在洋館棟だけが現存するが、玄関や窓は封印されており、内部は震災直後のままにある。設計は芦屋で数多くの住宅を設計した小川安一郎であった。

滴翠美術館と道を隔ててあるのが村野藤吾設計の中山悦治邸である。中山製鋼所の創業者の家で、昭和9(1934)年に建設された。タイル貼りの外観で、内部はモダンデザインの影響を受けた意匠をみせる。芦屋の山側には中山邸がもう一軒あり、武田五一が設計している。華道師範の家でスパニッシュ風の和洋折衷の建物であり、昭和5(1930)年に完成する。

元の海岸際にある芦屋美術博物館の敷地内には小出楢重アトリエが移築されている。建築家笹川慎一の設計であり、昭和4(1929)年に芦屋川右岸の川西町につくられた。木造で木部を外壁に表しとし、急勾配の屋根からなった。絵描きの一方で小出は随筆を著しており、「めでたき風景」で芦屋暮しのことを次のように記した。

「芦屋という処に住んで二年になる。先ず気候は私たちの如く細々と生きているものにとっては先ず結構で申し分ない。そして非常に明るい事が、私たちがさびしがり屋のために適当しているようだ(中略)その気候や地勢の趣きが南フランスニースの市を中心として、西はカーニュ、アンチーブ、キャンヌ、東はモンテカルロといった風な感が深い」

小出は大正15(1926)年から亡くなる昭和6(1931)年まで芦屋に住み、以上の印象を得たようだ。芦屋川右岸の海岸際にはスパニッシュスタイルの稲畑二郎邸があり、現在は稲畑汀子が住む。昭和11(1936)年に清水組の設計施工で建設された木造洋館である。菅原邸は稲畑邸より少し北側に位置する洋館で、赤瓦が美しいスパニッシュスタイルの建物である。

2)現在の公共建築

公共建築としては昭和2(1927)年の芦屋仏教会館や芦屋警察署、昭和4(1929)年の芦屋郵便局電話事務所が挙げられる。いずれもが鉄筋コンクリート造となる。仏教会館はインド・サラセンスタイルがモデルとなり、設計は大阪の片岡建築事務所が担った。彫刻やステンドグラスが美しい警察署は置塩章が課長を務めた兵庫県営繕課が設計した。電話事務所はスクラッチタイル貼りで6つの半円アーチによる側廊(アーケード)が正面に付いた建物で、設計は逓信省が担い、担当者は上浪朗であった。現在は芦屋市立図書館打出分室となる石造でルスティカ積の建物は松山與兵衛邸の収蔵庫松濤館であり、昭和5(1930)年に大阪から移築された。この建物は元々大阪の銀行社屋であり、御堂筋の道路敷になったために不要となり、それを松山が買い取ったようだ。

ここでは芦屋に現存する二つの知られざる建物を主に論じてみたい。

芦屋遊園

芦屋遊園の休憩所

現存する公共建築のなかで芦屋最古のものは芦屋公園にある四阿風の鉄筋コンクリート造の小建造物と考えられる。この建物は旧芦屋遊園乗合バス待合所として建設されたという。芦屋公園は芦屋川の河川改修工事と耕地整理の結果、明治40(1907)年に芦屋遊園として誕生していた。

この待合所は屋根も壁も柱もベンチもなにもかもすべてがコンクリート造となっている点に特徴がある。屋根は寄棟となり、上部がむくり、下部はそり(照り)が付いた曲面からなり、天井面も屋根形を反映して同様な形となり、このカーブの断面には唐破風の形が現われる。中央部の梁上をみると、屋根のカーブの真下まで小壁がコンクリート造で立上がっており、梁と一体化している。

現地で寸法を測ってみると、平均して壁厚は約8.5cm、柱の大きさは約16cm角となる。つまり通常の鉄筋コンクリート造ではありえない寸法である。ここからは関東大震災以降に確立される耐震壁を伴った鉄筋コンクリート構造が確立する前の構造であったことがうかがえる。一見鉄網コンクリート造かと思われたが、数年前の改修工事で壁の一部を斫った際に、ふつうに鉄筋が入っていたことが確認されており、このことからは部材寸法は小さいものの鉄筋コンクリート造であることがわかる。一方屋根スラブは補修時の写真からは網状になった細い鉄の丸棒が芯に入っていることがわかる。つまり、こちらは鉄網コンクリート造に近い構造であったことがわかる。

建築スタイルをみると、出入口は妻2面・平2面の4方向にあり、開口上部はいずれもが火頭窓の形となる。梁上部の小壁は猪目の縁取りがなされる。全体にみると東洋趣味風な意匠と捉えることができる。設計者は不詳だが、精道村の施設ということからは精道村役場(大正12年)を設計した和田貞治郎の可能性が考えられる。

正確な建設年は不明だが、海水浴客用の乗合バスの運用という点からは、大正後期から昭和初期の完成とみることができる。ちなみにバスの全国的な隆盛は関東大震災以降である。百年近い歳月に耐えて、今も現存するこの小建物から、芦屋が海浜リゾート地として賑わっていた時の文脈を読み取ることができる。

海水浴客用の店の家屋(松浜町)

この場所はかっての海水浴場の入口にあたり、海水浴客を対象とした店の建物がその東側にある。木造二階建てで、外壁は縦板張りに漆喰塗、1階は縦格子、2階は肘掛け窓が付くスタイルを示す。戦前期までに建設された建物で現在は使われていないが、四阿(バス待合所)とならんで、この場所が有した歴史を伝えている。

宮塚町市営住宅

宮塚町市営住宅

近年国の登録文化財となった市営住宅であり、昭和27(1952)年から昭和28(1953)年にかけて建設された。戦後は鉄筋コンクリート造建造物の建設が可能になるのは昭和25(1950)年以降であり、その早い時期の建物といえる。

外観からは黄灰色した石積であることがわかるが、打出の図書館とは異なり、ごつごつした触感ではなく、比較的平滑なテクスチャになっている。石造だが重厚さは希薄であり、むしろ軽快な印象がある。それは天然石と天然石の間に細いセメントブロックを挟むことで視覚上、水平線の強調が図られたことによる。天然石の中心には縦の鉄筋を通すために孔があけられ、ブロックの位置では横の鉄筋が配され、コンクリートが充塡されるという工法が採られていた。石壁の厚さは150mmあり、日華石という石が用いられ、石川県で採石された。旧甲子園ホテルに使用された石と同じであった。

建物は2階建で、計8戸からなり、2つの階段室のまわりにそれぞれ4戸が配された。階段は即物的に外側に突出して設けられ、建物の桁行方向と並列する。いわゆる団地に多い階段室型ではない、平面は6畳、4.5畳、居間兼客間の3室からなり、居間兼客間の端にはコンロ台と流しを備えた台所があり、便所は玄関脇にあり水洗となっていた。

設計は公営住宅52FC型標準設計に基づき、芦屋市建築課が担った。当時の建築課のメンバーは定かではないが、昭和26(1951)年から翌昭和27(1952)年にかけての時期、建築課長を日本インターナショナル建築会の中心メンバーのひとりであった新名種夫が務めており、この特異な構造とスタイルを考えると、関わっていた可能性があるのかもしれない。ただし新名は昭和27(1952)年1月に亡くなっており、タイムラグがあることから詳細は不明である。

新名は大正13(1924)年に京大建築学科を卒業し、大阪市建築課技師を務め、大阪市営改良住宅設計を中心になって担っていた。それは大阪市下寺町に昭和7(1932)年から昭和8(1933)年にかけて完成する鉄筋コンクリート造3階建ての計18棟からなった。そのことを考えれば、新名の関与があったとしても不思議ではない。日本インターナショナル建築会ならびに大阪市建築課のなかでは最左翼に位置して、社会主義的な理念でもって社会事業施設を担った役所の建築家であった。

残された記録によれば、施工は小笠原旿が代表の日本ビルダースという建設会社が担ったことがわかる。小笠原は京大建築学科を昭和6(1931)年に卒業しており、新名と何らかの関わりがあった可能性も考えられる。小笠原は昭和30(1955)年には小笠原建築事務所を主催する。

3)洋館の記憶 ひとしれず消えた住宅

田中邸

ひとしれず消えた住宅を振り返ってみる。筆者が調査した後に取毀されたものは十数軒がある。そのなかで記憶に残っている建物を挙げると、平田町には田中邸(設計は松井貴太郞)、飯田邸(設計は小川安一郎)、上野邸(設計は石本喜久治)、竹内邸(設計は今林彦太郎)が、芦屋川岸には杉山邸(設計は小川安一郎)、山手には松岡邸(設計は渡辺節)、打出の海岸には金川邸、伊勢町には貴志邸(設計は今北乙吉)、打出には松橋邸(設計は石本喜久治)などがあった。

消えた第一の理由は震災であり、木造系の住宅は半壊し、取毀しに至ったが、鉄筋コンクリート造の住宅はほぼ原形を保った。その後26年が経過し、せっかく震災にも耐えて残った鉄筋コンクリート造住宅の過半が、広大な敷地ゆえにマンション用地として狙われ、建て替る。

以下、印象深い建物の細部を記す。田中邸の解体時に立ち会った。この建物は柱と梁だけが鉄筋コンクリート造で、壁は煉瓦造、スラブはカーン式の魚の骨状の鉄筋からなり、リブの付いた曲げた鉄板を仮枠として、そこに魚の骨状の鉄筋が配されたカーン式の鉄筋コンクリートとなっていた。飯田邸は廊下と応接間を繋ぐ扉の上の欄間には雲丹(うに)を象ったステンドグラスが嵌まっており、震災直後、解体作業員がハンマーで叩き割っている姿が目に焼き付いている。

上野邸

上野邸は玄関車寄せの柱型の柱頭飾りが御影石を斜めに削って溝をつけてデザインされており、新しい感覚が試みられていたことも忘れられない。

3芦屋と建築家

1)多くの住宅を手がけた小川安一郎

松風山荘(藤井邸)

芦屋で洋風住宅をもっとも数多く手がけたのが小川安一郎であった。川沿いにあった杉山邸や山内卯之助邸、前述の飯田直次郎邸(平田町)と藤井邸(松風山荘)、寺井栄一邸、肥田昌三邸、平野一齊邸(澄翠閣)など7棟が確認される。その多くは地震で倒壊し、現存するのは藤井邸洋館だけである。

小川は明治15(1882)年に生まれ、京都高等工芸学校図案科を卒業し、住友本店臨時営繕部に入り24年間勤める。その後内外木材工芸社技師長、大林組嘱託となる。一度も建築事務所を立ち上げたことはなかったが、余業として多くの住宅の設計をおこない、現存するものには御影の木水栄太郎邸などがある。豊中にあった自邸と代表作の池長猛邸は数年前に建替えられた。

芦屋での小川安一郎の作品はハーフティンバーやスパニッシュなどのスタイルを示すものは少なく、どちらかといえば洋館らしさが全面に押し出されているものではなかった。すなわち、和風の手法である本瓦に似た燻し銀のS型瓦、壁は黄土色など日本の伝統的なものが用いられた。ただし骨格は縦長の窓など洋風のものとなる。一方で内部では洋風のステンドグラスが嵌め込まれるなど逆転する。すなわち大林組住宅部が手がけた手法と共通する。

唯一残る藤井邸の洋館をみると、和風建築、とりわけ社寺で用いられる斗栱の形がアーツ&クラフツ風にデフォルメされて、肘掛け窓の持ち送りや軒下の出桁を受ける。つまり外観は和館にあわせるために日本の伝統的な仕様となるが、凝視すれば細部が新しいヨーロッパの造形の影響を受けた意匠に置換されている。ここに小川設計の特徴をみることができる。

2)芦屋で最初の建築家・和田貞治郎

精道村役場

個人の住宅ではなく、役場や学校など都市の記憶となる公共建築の設計を手がけたのが和田貞治郎である。鉄筋コンクリート造の精道村役場(大正12年)をはじめ、精道・山手・岩園の各小学校の鉄筋校舎を設計し、いわば芦屋の原風景をつくった建築家といえる。大正12(1923)年に公光町に建築事務所を設け、芦屋で最初の民間建築事務所であった。その横にはライトの影響を受けたスタイルを示す自邸を構えた。筆者は1987年にその家を訪ね、貞治郎の息子・真一に聞取り調査をおこなっている。和田は明治20(1887)年生まれで大阪市立工業学校建築科を卒業後に辰野・片岡建築事務所に入り、大阪合同紡績建築課主任を経て、独立した。

この頃にはこの建築設計事務所は東和組という設計施工の建設会社になっており、大阪梅田の東通り商店街を抜けた梅ヶ枝町に自社ビルがあった。その地下には膨大な数の図面が木の棚にきれいに整頓されてあり、山手小学校の図面をみせてもらったことを覚えている。その際に塔屋の図面をコピーしてもらった。その後東和組は倒産し、ビルは解体され、図面などの史料はすべてごみとなって消えた。この時にとらせてもらった塔屋の図面だけが和田建築事務所の唯一の図面となる。

なぜ和田が精道村の公共建築を手がけるようになったのだろうか。詳細は不明だが、精道村役場の設計を依頼されたことが契機となり、この町に移住して精道村の仕事を手がけるようになったのだろう。震災直後に連絡をとったが公光町の家は倒壊していた。その前後の時期に真一は亡くなり、その息子が跡を継いでいた。現在和田貞治郎の建築は芦屋から消えたが、おそらくは前述の旧芦屋遊園乗合バス待合所が大正12(1923)年以降のものとすれば、和田が設計に関与した可能性が高いものと思われる。和田の設計したもので残っているのは、京都市伏見区の月桂冠・大倉氏の本邸と大阪府田尻町の谷口房蔵別邸(大阪府指定有形文化財)がある。

4芦屋との出会い

私事に及び恐縮だが、1981年夏から1987年春までの6年間、筆者は芦屋の松浜町に住んだ。芦屋川左岸にあって埋立までは海に面した町だった。会社の保養所や倶楽部、元旅館があり、大正期の別荘地の風情が残っていた。住んだ家は木造平屋建ての小住宅であり、大正期に出来た海水浴客用の夏の家であった。大きな松の木が敷地のなかにも生えており、松浜の名にふさわしい場所であった。そこから元の海岸まではワンブロック先であり、防潮堤の向こうの埋立てが終わり、ようやく家が建て始められる時期であった。

この家の前には住宅地に囲まれたテニスコートがあり、周囲は大正前期から昭和一桁代に建設された住宅がそのままにあって、数軒に一軒は洋風要素のある外観意匠を示した。なかには本格的な洋館もあって、通る度にその意匠に魅了された。だがそれらの多くは震災を契機に取毀された。その数は筆者が知っているだけで近所に十数軒あり、おそらくは芦屋全体では100棟近くあったものと思われる。どれもが建築調査がなされないままに消えていった。

さてこの家のその後を記すと、震災に耐えて数年前までは残っており、散策の折にその前をとおることがあった。ひとたびその通りに入ると、時間の流れがたちまち変わった。強い郷愁でもないが、そこに住んだ過去の自分ならびに家族、訪れた人たちが場景として甦ってくることがあった。この原稿を書いている最中にこの界隈をたずねてみた。すると、この家が失われたことで、記憶のよすがは失われ。一見まったく見知らぬ場所になってしまっていた。建物のもつ力を改めて思い知らされた。長く一箇所にある建物は存在だけで歴史になり、人の記憶を繋いでいたことが実感される。

古写真以外の撮影は川島智生による。