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旬の情報

六甲下山|稲畑廣太郎

情報掲載日:

ホトトギス主宰 稲畑廣太郎さん の寄稿文です。

稲畑廣太郎さんプロフィール

昭和三十二年五月二十日、兵庫県芦屋市生れ。

母稲畑汀子の許で幼少の頃より俳句に親しむ。俳人髙濱虚子は曽祖父。

昭和五十七年三月甲南大学経済学部卒業。
四月合資会社ホトトギス社入社、本格的に俳句を志す。

昭和六十三年一月ホトトギス同人、同時にホトトギス編集長就任。

平成十二年財団法人虚子記念文学館理事。

平成十三年社団法人日本伝統俳句協会常務理事。

平成十七年四月ホトトギス雑詠選者及び副主宰に就任。

平成二十五年十月二十七日午後一時十九分ホトトギス主宰に就任。
句集に『廣太郎句集』『半分』『八分の六』『玉箒』『閏』。
著書に『曽祖父(ひいじいさん)虚子の一句』他。

阪神間という場所は、特に大阪から神戸に行くに従い、南には海、北には山があり、その海と山の間隔がだんだん狭まってくるのが特徴のひとつだろう。

私の住んでいた芦屋市は、北を見ると六甲山、南を見ると大阪湾があり、その間の平
地もほど良く拡がっていた。

この地形により、阪神間では東西南北が判りやすいということは以前書いた。小学生の頃からは結構自転車で市内を走ることが多く、昭和四十年頃には小学生の間では結構豪華な装備品の付いた自転車が流行っていたのを思い出す。

サイクリング自転車といえば、現在ではドロップハンドルで軽量な自転車を言うのかも知れないが、当時も確かサイクリング自転車と称していたように記憶しているが、セミドロップハンドルといって、普通の自転車に付いているハンドルをそのまま反対に向けて下に傾斜しているような形で、何と方向指示器やバックミラー、ブレーキランプ、はたまた豪華なものになるとスピードメーターまで付いていたと記憶しているが、そんな自転車をこれ見よがしに乗っていた記憶もある。

そんな自転車に乗っていた時の夢の一つに、その自転車で是非六甲山まで登るというのがあった。しかしこれは親に強く反対されて頓挫した。その反対された理由として、登るのは良いとして、下りる時にブレーキが擦り切れて甚だ危険である、ということであった。

確かにそれは一理あり、さっさと諦めた。そんなことで、自転車では主に芦屋市内を走るだけの生活ではあったが、大人になると車も運転するようになり、自転車とは疎遠になってしまい、芦屋ではとんと乗らなくなってしまったが、東京で生活するようになって何年も経って、芦屋に帰郷した時、車を使程のことではない外出で、たまたま自転車にのったところ、私の生家は、これも以前書いた芦屋市平田町という海に近い場所で
、自転車で出発すると、北へ向かうというコースが殆どである。

ところが、小学生の頃は感じなかったが、平地と言えども北、つまり山へ向かって微妙に上り坂になっており、自転車では息が切れるようになっていたことに気付いたのである。反対に帰りは下り坂で、ペダルを漕がなくてもある程度進むことにも気付いた
が、それ以来芦屋での自転車の使用は殆ど無い。

色々支離滅裂なことを書いてきたが、今回は前述少し取り上げた六甲山のことである。

子供の頃から、東京暮しが始まるまで毎日北を見ると聳えていた山である。

実は大人になってから知ったことではあるが、六甲山という固有の山は無く、正式には六甲山地という連山を言い、西の端は明石の塩屋海岸で、有名な再度山や摩耶山もこの六甲山地に含まれているそうだ。

最高峰の海抜九百三十一メートルの山は東六甲山といってこれが主峰だそうだが、この正式名を知ったのがつい最近であった。私が毎日見ていた山は厳密には六甲山地の中の山であったのだ。

私は中学、高校と芦屋市の山手朝日ヶ丘町にある甲南中学、高等学校に通っていた。

学校行事の一環として毎年春であったか秋であったか忘れてしまったが、全校生徒が遠足をするのである。

ルートは阪急芦屋川駅に集合して、そこからロックガーデンを経て六甲山頂にある一軒茶屋という山小屋に行き、そこから又有馬温泉まで下りて行く。

タイトルにもあるように、これが山頂がゴールなら六甲登山となるのだろうが、そこから又下りてゆくということから、生徒の間で当時名付けられていたのが「六甲下山」という遠足であった。

風の便りで、この遠足は現在でも行われているようで、山頂の一軒茶屋も、当時は朽ち果てたような印象の山小屋であったと記憶しているが、試しにネットで調べてみると、現在はちょっとしたレストランになっていて、登山者の癒しの場となっているようだ。

このルートは結構手軽に利用出来るという印象であったが、それでも道に迷う生徒は居たようで、実は私もその一人なのである。幸い何人かと行動を共にしており、遭難とまではいかなかったが、到着時間が大幅に遅れ、先生にも心配をかけた記憶があり、今でも思い出すと汗顔の至りである。

又これは事実かどうかは判らないが、ある年のこの遠足では、道に迷った生徒が遭難者の遺体を発見したという噂も聞いた記憶がある。

自然は美しいものだが、決して侮れないのである。