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阪神間・都市と建築の記憶2 -西宮・「酒造都市」の系譜|川島智生

情報掲載日:

建築史家・京都華頂大学教授 川島智生さんの寄稿文、第二回です。

川島智生さんのプロフィール

1957年広島県鞆町生まれ

京都華頂大学現代家政学研究所教授 神戸女学院大学元講師。

日本の近代建築史が専門で、小学校建築史で博士号取得、尼崎に関する論考としては「大正期における尼崎市公共建築についてー市建築技師・末澤周次の事績」『地域史研究』第30巻第1号尼崎市立地域研究史料館紀要2000

阪神間都市と建築の会主催、雑誌『歴史と神戸』に[No1尼崎・城下町の近代化遺産(1999)、No2先駆けとしての浜甲子園住宅地(1999)、No3「深江文化村」大正時代の海浜住宅地&西宮港(2000)、No4熊内・紅塵荘から新川へそしてHAT・敏馬浦(2000) ]と4回執筆、

主な著作に『尼崎産業遺産に関する調査研究報告書』あまがさき未来協会(2002)、『近代日本のビール醸造史と産業貴産』淡交社(2013)、『近代神戸の小学校建築史』関西学院大学出版会(2019)、『近代京都における小学校建築』ミネルヴァ書房(2015)、『近代大阪の小学校建築史』大阪大学出版会(2017)、『関西のモダニズム建築』淡交社(共著2014)『民芸運動と建築』淡交社(共著2010)などがある。

雑誌『文教施設』に全国の学校建築史の論考を15年間、雑誌『醸界春秋』に醸造家と建築の論考を28年間連載中。

NHK・朝日・よみうり・近鉄の各文化教室で講師を務める。

阪神間・都市と建築の記憶2 -西宮・「酒造都市」の系譜

都市イメージと原風景

西宮は阪神間でも尼崎とは異なり、六甲山麓を含み、六甲山が近い。海岸は臨海工業地帯だけではなく、香櫨園浜や浜甲子園など海浜住宅地になっていた。震災の被害はより激しく、国道171号線より北側に被害は集中し、戦前からあった夙川の住宅地では倒壊した洋館も多かった。

さて現在兵庫県有数の人口を誇る都市だが、その原点は旧西宮町にある。西宮とは江戸期より昭和まで長く「お酒と夷様」で知られてきた。宮水という他所にはない特別の井戸水があり、この水で酒を造ると美酒が出来るために日本一の酒造地となった歴史がある。

まず地図を見ていただきたい。この地形図は大正中期に作製されたもので、市制を敷く直前のものである。市街地があるのは西宮神社の南側だから、現在の国道43号線より南側に町があったことがわかる。海岸側は浜方とよばれ、酒蔵街となる。阪神電車の線路以北は田畑しかなかった。

上:多聞ビルヂング 下:辰馬喜十郎邸

昭和20(1945)年の空襲ではその過半が焼失する。終戦直後に米軍が撮影した空撮写真からは町の多くが焼失した様子がわかる。そのなかで港の周辺だけは全焼ではなく、後にみる辰馬喜十郎邸はその時に焼け残る。一方で北側のロータリーから右方向にある多聞ビルヂングは焼跡にぽつんと立っている。周囲の町屋や長屋は焼失していた。おそらくは防火シャッターをおろしたことで類焼をのがれたようだ。その南側は宮水発祥之地があり、各酒造メーカーの宮水井戸が密集する地域である。

西宮市は大正14(1925)年に市制を敷くが、21の町村からなった武庫郡のなかでは最大規模の町であり、郡役場の所在地であった。武庫郡とは須磨村と山田村を除けば、西は西灘村、東は大庄村、南は大阪湾、北は良元村、の範囲であり、いわゆる阪神間と呼ばれる地域と重なる。市制施行以降は次々と周辺の町村を吸収し、昭和8(1933)年に今津町・芝村・大社村を、昭和16(1941)年に甲東村、昭和17(1942)年に瓦木村、昭和26(1951)年に鳴尾村・山口村・塩瀬村をそれぞれ編入してきた歴史がある。

ここでは現存する建物から都市のイメージを、原風景をさぐっていきたい。

辰馬喜十郎邸と白鹿館

川島智生 撮影

西宮の旧港には掘割りがあって、その一画に辰馬喜十郎邸が眠っている。明治21(1888)年に建設された擬洋風スタイルの建物である。二十六年前の阪神淡路大震災で壁のクラックや室内壁面に貼られた金唐革の破裂などの被害があって以来、そのまま封印された。それまでもほとんど手が入っていなかったことで、竣工時のしつらいがほぼそのまま残っている。

建築的な特徴は二階建てでベランダが廻るコロニアルスタイルの建築である。外壁は漆喰塗で、開口部には鎧戸が付く。開口上部はアーチ形となる。一階の円柱には御影石の一本物が使われている。階段もゆったりとした勾配で、擬洋風というよりも本格的な洋館に近い設計となる。各室には本当の暖炉が備わり、カーテンボックスには蒔絵が描かれる。便所・風呂・洗面所などの水廻りは別棟で備わっている。

この建物は大工棟梁による設計施工であったが、神戸居留地にあった洋館を見に行ってつくったものと伝わる。そのこともあってデザインの密度は単なる擬洋風ではなく、内部は外国人技術者が設計した洋館に近い意匠となる。洋風技術という観点では稚拙な傾向にある一般的な擬洋風とは異なることを指摘しておきたい。

施主辰馬喜十郎は南辰馬家を創設し、震災時まで現存していた煉瓦造の酒蔵(明治25)を建設した酒造家であった。進取の気性に富んだ人物であつたからこそ、このような洋風の住宅を早い時期に建設したのだろう。間取りからは多分に迎賓館的な要素が強かったものと思われる。振り返れば明治10年代から20年代にかけての西宮には擬洋風建築が幾つか確認される。明治10(1877)年には西宮小学校で六角塔を掲げた擬洋風校舎が完成し、その姿を喜十郎は見ていたはずだ。

辰馬喜十郎邸のある西宮港は近世の面影を残す港である。その周囲には江戸期より酒蔵が数多く建てられていた。明治から昭和の長きにかけてわが国第一の生産規模を誇った辰馬酒造はこの場所に本店ならびに酒蔵を置いた。その掘割りに面して、酒造建築史のマイルストーンとでもいうべき白鹿館が2011年まで建っていた。昭和5(1930)年に建設された建物で、真夏でも酒造りができる冷房装置を備えた四季醸造庫であった。インターナショナルスタイルの外観にヴォールトの吹抜け空間の瓶詰場を内蔵しており、酒造のシステムのみならず建築スタイルの上でも先駆的な内容を実現していた。設計は竹中工務店のデザイナー石川純一郎であった。筆者は30年前に豊中にあった石川純一郎の家を訪ねた時に冷房装置関連の書籍が多くあったのに驚いた記憶がある。

川島智生 撮影

石川は白鹿館の設計前に、甲子園にモダンデザインの旧制中学校校舎の設計をおこなっていた。昭和4(1929)年に完成する甲陽学院であり、辰馬吉左衛門が経営に深く関わった私立学校であった。筆者の父も昭和10年代に兵庫の町から甲子園までの5年間同校に通っており、その贅沢な校舎には驚かされたといっていた。

多聞ビルヂング

川島智生 撮影

西宮に現存するもっとも格式の高いヨーロッパ歴史様式の建造物である。震災直後のことだ。西宮が生んだ建築家、古塚正治研究の一環で訪れた。その時も使われてはいなくて、八馬家の番頭の方に出向いてもらった記憶がある。その後関連会社の多聞酒造が倒産し、このビルの所有は他の法人に移っている。一見銀行のようにもみえるこの建物は昭和3(1928)年に建設された。往時の使い方は1階が西宮銀行本店、2階が八馬汽船本社であった。

設計者古塚は西宮出身で初代八馬兼介の援助によって、早稲田大学を卒業し宮内省に入り、欧米留学を経て大正12(1923)年に建築事務所を西宮に開いた。阪神間では最初期の民間建築事務所であり、八馬の推薦で宝塚ホテルをはじめ西宮図書館、西宮市庁舎などの設計を担った。多聞ビルヂングは古塚の恩人、八馬兼介率いた多聞合資会社の本店である。八馬家とは銀行・海運・酒造などの事業に担い、辰馬と並ぶ西宮の名望家であった。西宮銀行は初代兼介が設立し、20年間頭取をつとめた。

この建物は南側に正式な玄関があり、そこにはギリシャ神殿式のオーダーが立つ。柱頭飾りはコリンシャスとなる。東側のファサードには半円形のピラスターが4本付く。1階はセグメンタルアーチの装飾が、2階は半円アーチの開口上部となる。外壁には御影石が積まれる。内部は吹抜けの空間となり、天井は格天井に石膏装飾がつく。柱頭飾りに猛禽類の浮彫もある。浮彫彫刻などの装飾を好んだ古塚らしい内部空間となっている。大がかりな改修工事がなかったことで、竣工時の面影をとどめる。古塚正治は「事業の性質から堅実味を表象する意味からルネサンスとした」と記した。

今津小学校

川島智生 撮影

昭和8(1933)年に西宮市と合併した今津町は西宮と隣接した酒造地であった。この町のアイデンティティを考える際に忘れられない建物がふたつある。ひとつは酒の江戸積みのための港、今津港の木造灯台であり、江戸期の形をとどめるが、近いうちに移転が計画されている。もうひとつは今津小学校の校地内にある六角堂である。この建物は明治15(1882)72日に竣工した今津小学校の、かつての本館だった。兵庫県内で現存する最古の学校建築である。

小学校校舎として建設され、その後今津公民館、今津幼稚園と用途を変えて生き延びてきた。その理由は近隣に類例をみない珍しい擬洋風のスタイルが重宝されたことによる。つまり普通の校舎のように耐用年数がすぎればただちに建替えられるという図式から逃れ得た訳だ。そのような意味では建築スタイルの力が保存につながった好例といえる。

神戸女学院

川島智生 撮影

昭和8(1933)年に西宮市に合併された大社村の北東端に神戸女学院(昭和8年)が建設されていた。阪急電車今津線は大正10(1921)年に敷設されたものの、乗客数は少なく、学校を誘致して乗客数の確保を考えた小林一三によって、神戸の原田の森にあった関西学院が昭和4(1929)年に甲東村の丘に移転する。次いで神戸女学院が神戸の山本通りから移転することになる。ともにキャンパス計画が立てられ建設されたために、ここには完結した学校空間が実現する。共通してスパニッシュ・ミッションやイタリアン・ヴィラの影響を受けた「自由近世式」とよばれたスタイルを纏う。設計は同じくヴォーリズ建築事務所であり、同事務所の名デザイナー佐藤久勝が担当した。関西学院は増改築があって建替えが進んでいるが、神戸女学院は基本的に建設当初の形を保っており、現在は国の重要文化財となる。

学校建築史を専門とする筆者は毎週、十四年間神戸女学院大学に講義のために通っていた。そのためにこの校舎は見慣れているはずであったが、けっして飽きることがなかった。個々の建物はそれなりのデコラティブな粧いを呈したが、特別に圧巻するようなものではなかった。だがそれらが配置されて形づくられるクアド・ラングル(中庭)は絶妙なバランスでもって、どこにもない空間が生まれていた。この空間には自動車は入れない。にもかかわらず各建物のファサード(正面)は中庭側にある。そこでは自動車を遮断し静謐な場を設定していた。ヴォーリズが考えた建築にはこのような配置をみせるものが他にもある。ヴォーリズの弟子であった吉村清三郎がプロデュースした大正期の芦屋・深江文化村である。計13戸の住宅からなったが、玄関は中庭側に向いて、そこが共有の芝生の広場になっていた。

図書館の二階バルコニーから中庭を臨む光景は忘れられない。正面には総務館と一体化した講堂ならびにソールチャペルがあり、右には文学館、左は理学館が建つ。図書館を含め4つの建物は瓦屋根をみせるなど共通するスタイルを有する。壁面は微妙な意匠の差異をみせながらも統一感を示す。建物と建物の距離感も大きく作用した。文学館と理学館の間は二階建ての建物高さを反映して狭い。一方図書館と総務館の間は三階建ての高さゆえに、その距離は長い。中庭に立つと建物が圧迫してこない。かといって間延びしたものではなく、絶妙な間の取り合いがなせるものとなる。このことが落ち着き感を醸しだし、えもいわれぬうつくしいキャンパス空間をつくりあげることに成功したのだろう。ヴォーリズは良き学校校舎こそが、子どもを育てるのだと記した。その良質な事例をここにみることができる。

この敷地は神戸女学院が来るまでは旧尼崎藩主・桜井氏の別宅跡であり、その時の庭園を残すようにキャンパス計画が立てられた。クアド・ラングルに取り残された日本庭園の一部はその時の遺構である。ユニークなものは廣田神社の分社がキャンパス構内に存在する。プロテスタントの学校のなかにある神道の社は連綿とつながる歴史を無視できなかった証しだった。

旧新田邸(現松山大学迎賓館)

川島智生 撮影

申川・枝川が廃され、武庫川に一本化されるのは大正12(1923)年のことである。その廃川となった両岸は造成され、高級住宅地となる。右岸は瓦木村、左岸は鳴尾村となる。右岸に昭和3(1928)年に建設された新田邸は華麗な洋館であり、設計は様式建築の名手の木子七郎である。新田家は七郎の妻カツの実家であり、戦前までは新田帯革を主体に小財閥をなした。この家は新田帯革の創業者であり、木子の岳父となった新田長次郎が孫の新田利国の為に建てたものである。それだけに意匠のレベルは高く、木子は頑張って設計したのだろう。

外観は暖炉の煙突を兼ねた小さな円塔を設けた屋根など、スパニッシュの影響を受けるが、内部はアールデコ風の意匠が施されており、ビリヤード室やサンルームは見事なものに仕上っていた。

今から34年前の1987年冬のとある日に、筆者は後藤という神戸新聞写真部所属のカメラマンと一緒に訪ねた。それまではまったく知られておらず、そのレポートは神戸新聞連載の「兵庫の洋館」に取り上げられ、世に出ることになった。後藤さんは阪神大震災直後に40歳で死去する。なお木子七郎の設計した建築は震災までは甲南山手駅の北側に祭原邸が残っていた。また東京広尾や大阪帝塚山、堺東にも新田家の息子たちの家が残っており、筆者は1980年代に幾つかの住宅の内部調査を実施した。

一楽荘

甲子園に近い枝川右岸側には田畑のなかに一楽荘という敷地一万坪の大邸宅があった。設計は木子七郎であり、昭和14(1939)年に完成した。新田邸を見出した数年後に、一楽荘の跡に残った家を訪れる機会があった。そこで見せてもらったアルバムの写真には驚かされた。建物は洋館と和館からなり、洋館には円筒状の望楼が付いたスパニッシュスタイル、和館は御殿と京都大徳寺を模した洗月亭があった。施主は繊維商社田村駒の二代目の田村駒治郎であった。田村は野球ファンで球団松竹ロビンスのオーナーでもあった。空襲で過半が焼失し、現在はマンションが建っているが、残された写真からは木子七郎が設計したなかで最高レベルの住宅建築であったことが読み取れる。消滅が惜しまれる建物のひとつである。

旧甲子園ホテル(現甲子園会館) 

川島智生 撮影

最後に西宮市に合併されたのが武庫川右岸の鳴尾村であった。ここには戦前期までに建設されたホテルのなかで、とりわけ異形な形を有する甲子園ホテルが現存する。なぜこの場所が選ばれたのか。その理由は武庫川畔という松林のロケーションと阪神国道線駅前という利便性の2点が挙げられるが、当初は浜甲子園の海岸べりに建てられる計画であり、その設計は大林組住宅部長であった松本儀八とその師武田五一であった。昭和5(1930)年に建設された甲子園ホテルは異彩を放ったが営業期間は短く、現在は武庫川女子大学甲子園会館という名の学舎となる。

西宮との出会い

最初に西宮という町を意識したのは1980年代前半の時期で、西宮港の沖に埋立が進行中の時期であった。この頃筆者は江戸期までに築造された古い港町に興味があって、地図をみては休日に車で現地に赴くことを繰り返していた。目的はふたつあり、ひとつは筆者が生まれた鞆町の港研究のために似た港の探究、もうひとつは近代建築の発見で、そこには未知の名建築が隠れていることが多かったからだ。港町としての西宮を見出したのはこの頃のことで、他に印象に残る港町としては大阪の伝法や堺の大浜がある。

この時にはすでに埋立地と結ぶ橋は架かっていたが工事車両のみが通行可能な時期で、酒蔵に囲繞された古い港側は静まりかえっていた。かつて新酒を積んだ樽廻船が出航する港ゆえに、住吉神社があり、その奧には明治期の巨大な煉瓦の紡績工場、御前浜には幕末の石造砲台、漁師の家などが置き忘れられように港の廻りにあった。

この数年後に訪れたのが白鹿館であった。瓶詰場は生きていたが、四季醸造庫ではなく貯蔵庫として使われており、今後どうなるのか一抹の不安はあった。その危惧は震災後15年経った時期に的中し、取毀された。背景に1970年代をピークとして日本酒需要の激減があった。白鹿館は酒造建築の記念碑的な建築であり、筆者の酒造建築研究の出発点であった。連載が29年目に入った「醸造家と建築」の最初の号(1992年4月)で取り上げた建物がこの白鹿館である。

今年はこのコロナ禍で外出もままならなかったが、西宮の海に一度だけ出掛けた。友人のヨットに便乗し、埋立地に出来たヨットハーバーから船出した。水は相変わらず暗い色をしていたが、湾岸道路の橋をくぐり、大阪湾に出た時に風が強まり、あたりが一変した。翻って陸地をみると町が連なり、西宮界隈が海辺の町であったことが改めて実感された。