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芦屋浜物語|稲畑廣太郎

情報掲載日:

ホトトギス主宰 稲畑廣太郎さん の寄稿文 第2回目です。

稲畑廣太郎さんプロフィール

昭和三十二年五月二十日、兵庫県芦屋市生れ。

母稲畑汀子の許で幼少の頃より俳句に親しむ。俳人髙濱虚子は曽祖父。

昭和五十七年三月甲南大学経済学部卒業。
四月合資会社ホトトギス社入社、本格的に俳句を志す。

昭和六十三年一月ホトトギス同人、同時にホトトギス編集長就任。

平成十二年財団法人虚子記念文学館理事。

平成十三年社団法人日本伝統俳句協会常務理事。

平成十七年四月ホトトギス雑詠選者及び副主宰に就任。

平成二十五年十月二十七日午後一時十九分ホトトギス主宰に就任。
句集に『廣太郎句集』『半分』『八分の六』『玉箒』『閏』。
著書に『曽祖父(ひいじいさん)虚子の一句』他。

芦屋浜物語

私の生家は兵庫県芦屋市平田町という、海岸から二百メートルほどの場所にある。今は母が一人で住んでいるが、去年までは最低でも月一度俳句の仕事で芦屋へ行き、その時は生家に泊るのを常としていた。ところが今年令和二年は例の新型コロナウイルス蔓延の影響で自粛を余儀なくされ、それこそ四月の緊急事態宣言が発令されてからは現在住んでいる東京都から他県へは一歩も出ない生活が続いた。東京なので、という言葉が適切かどうかは判らないが、都会の便利さから生活自体は不自由では無く、確かに一時期トイレットペーパーやマスクや食料品の買占め騒動等もあったが、それほど影響無く過すことが出来た。六月頃からは自粛も緩和され、尤も日本では強制ではなく、自粛をしないからといって罰則があるわけでも無かったが、そろそろ芦屋への出張が始まった。実際には私自身三月から六月頃までの四ヶ月ほど全く東京を離れなかったが、久し振りに芦屋へ行くとやはり懐かしさがこみ上げて来た。

六月に芦屋へ行った時、ふと思い立って生家の近所を吟行がてら散歩した。芦屋川の東側には有名な松林があり、其処には嘗ての阪神・淡路大震災で被災して亡くなった方々の慰霊碑が建っており、稲畑汀子筆の

震災に耐へし芦屋の松涼し

の句が刻まれている。その他有名な史跡としては「鵺塚」といって頭は猿、胴体は狸、手足は虎、尾は蛇という「鵺(ぬえ)」という妖怪が京の都で源頼政に討たれ、死骸を川に流したところ、最終的にこの芦屋浜に漂着して、此処に葬られたという伝説の場所がある。その松林の南側は「松浜公園」という、遊具もある公園になっていて、芦屋に行く度に汀子が家で飼っていたセッター種の犬の散歩に連れて行ったが、その犬も十七歳という人間に換算すると百二十歳の天寿を全うした。

実は今回の主眼は、その又南側の、現在では埋め立てられて芦屋市の湾岸都市として街が広がっているが、私が小学生の頃までは松浜公園の南は海岸線で砂浜もあり、海水浴も出来た場所であった。私は休日になると岩場にしゃがみ込んで、岩の間に居る磯蟹を捕るのが楽しみであった。その後父から魚釣りを教えてもらい、買ってもらった釣り道具で釣りを楽しんだりした。この辺りは、私の技術の未熟さもあってか、この地方では「テンコチ」と称していたが所謂雌鯒がよく釣れていたように記憶している。

その後その海岸に面白い施設が建った。大きな天幕の下に、長辺が五メートルもあろうかと思われる水槽が幾つも並べられ、その中には何種類もの魚が泳いでいる。そして受付のような場所では釣竿が有料で貸し出されている。釣竿といっても短い竹の棒に糸が結ばれ、その先に三叉ほどの鉤がついている。それで水槽の中の魚を引っ掛けて釣るのだが、糸が切れ易く、切れたらその場でお終い、という、歳時記にある「箱釣」が正にこれに該当するのではないだろうか。釣れた魚は全て持ち帰れていたとも記憶している。何故か私はこれに甚くハマり、家から歩いても数分の場所という立地も相俟って、しょっちゅう行っていた。勿論有料なので親から小遣いを貰うのだが、それこそ糸が切れたら又新しいのを買うということを繰り返していたので、何時も小遣いを使い果たしていたことも思い出す。その内少しコツも覚え、だんだん釣れる魚も増えてきて、持ち帰る量も増えたが、それを家で食べたという記憶は無い。

その後私も中学、高校、大学と学生生活は進み、この箱釣も無くなり、この浜も埋立工事が始まると、私もこの場所にはめっきり行くことが無くなり、近所ではあったがすっかり疎遠となってしまった。埋立はどんどん進み、芦屋市のシーサイドタウンとして、現在ではマンションや学校等が建てられて賑わっているが、未だ更地の頃花火大会が行われていて、家の二階から眺めることが出来た。その花火の火の粉が庭に降ってきたような記憶もあるが、数十年前のことで曖昧である。

考えてみると、芦屋浜に限らず、この阪神間の海岸は私が生活していた中でも埋立によって変貌し続けていたのである。埋立だけではなく、最近でも月一度芦屋来る機会が復活しても、来る度に新しい家が建ちつつ場所もあり、これからも続くのであろう。