あにあん倶楽部 -尼崎・西宮・芦屋を愛し、楽しむ情報サイト-あにあん倶楽部 -尼崎・西宮・芦屋を愛し、楽しむ情報サイト-

MENUCLOSE
旬の情報

あにあんぐるっとツアー映像 第三弾|講師 田辺眞人

情報掲載日:

あにあんぐるっとツアー映像 第3弾

スペシャリストと巡る阪神間ぐるっとツアーは新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から中止とさせていただきました。
その代替企画である、講師による各スポットの解説等を動画、写真にて配信する企画「あにあんぐるっとツアー映像」第3弾を公開します!

今回は、園田学園女子大学名誉教授 田辺眞人さんを講師に、阪神北・阪神南の各地のスポットを巡る歴史編をお送り致します。

ぜひご覧ください!

田辺眞人さんプロフィール

兵庫県神戸市生まれ。 兵庫県立兵庫高等学校から関西学院大学文学部史学科を卒業。

園田学園女子大学名誉教授。

自然総研名誉顧問・神戸新開地喜楽館特別名誉顧問、神戸新聞文化財団や学校法人園田学園や兵庫県生きがい創造協会の評議員のほか、神戸まちと歴史の研究会・温泉文化倶楽部・神戸歴史クラブの各会長でもある。

有岡城跡

有岡城跡は、猪名川の西岸、伊丹段丘(だんきゅう)東縁部の一角に位置します。

もとは伊丹氏が南北朝時代から戦国時代にかけて伊丹城を築いていたところです。
天正2年(1574年)11月、織田信長の武将荒木村重は、伊丹氏にかわって伊丹城に入城しました。

そして城の名を有岡城と改めて、大改造をおこないました。城だけでなく、侍町と町屋地区をも堀と土塁で囲んだ惣構(そうがまえ)の城としての価値を認められ、昭和54年12月に国の史跡に指定されました(昭和63年5月追加指定)。

あにあんぐるっとツアー映像|有岡城跡

辻の碑

昭和40年(1965年)に市の史跡に指定された辻の碑は、西国街道と多田街道とが交叉するいわゆる「辻」に建っています。高さ92センチ、幅76センチの自然石で、鋭角を上方に向けて建てられています。平成9年末に碑を納める覆屋が新調され、石張りの広場が整備されました。

碑の表面には銘文があって、多くの文字が刻まれていたようですが、長年の風雨にさらされて摩滅し、いまでは中央上方に刻まれた一行「従東寺拾里(とうじより10里)」のほかは読み取れません。

しかし、寛政10年(1798年)に刊行された『摂津名所図会(ずえ)』によると、その下には「距関戸(せきとにいたること)七里、距須磨(すまにいたること)七里、距天王(てんのうにいたること)七里、距大小路(おおしょうじにいたること)七里」と刻まれていたそうです。

関戸・須磨・天王・大小路は、摂津国と四方の国との国境(くにざかい)に位置する地名です。つまり、ここは京都の東寺(教王護国寺)から約40キロで、かつ四方の国境からそれぞれ約28キロの、摂津国の中心ということになります。

あにあんぐるっとツアー映像|辻の碑

今津灯台

創建から200年以上の歴史を持つ日本最古の現役灯台
日本最初の灯台は、893年(承6年)、遣唐使船のために九州各地で防人によって焚かれたかがり火と言われています。
江戸時代になると海運が盛んになり、常夜灯などが岬や港に近い神社の境内などに
設置されました。今津港ができたのも、江戸時代の1793年(寛政5年)で、江戸の酒荷を運ぶ樽廻船でにぎわいました。
そして大関酒造の長部家5代目長兵衛が、1810年(文 化7年)、この港に出入りする船のために私を投じて建てたのが「大関酒造今津灯台」の始まりです。
「大関酒造今津灯台」は、航路標識として海上保安庁から正式承認されている日本最古の灯台であり西宮市指定重要有形文化財にも指定されています。

上方から江戸へと樽廻船で酒荷が運ばれた時代、今津港に灯台が誕生しました。古くは室町時代の書物にその名をとどめる、港の清酒。
その産地は、西郷(現在の神戸市灘区)、御影郷、魚崎郷に西宮郷と今津郷を教えて灘五郷と呼ばれ、宮水と指州の酒造米に杜氏の技と連続精米の合理化投資が加わって、銘酒の誉れ高い「海の生一本」が生まれます。
江戸時代のはじめのころは、米や木綿、油、酒、醤油、紙などの生活必需品が菱垣廻船と呼ばれる貨物船に積み込まれ、大坂から江戸へと運ばれていました。

※兵庫県は津波対策工事に伴い、新川右岸の現在地から対岸の左岸に移設する方針。市の重要有形文化財に指定されているため、工法などについて西宮市文化財審議会の了承を得た上で、2022年3月ごろに着工予定。灯台の海を照らすライトは緑から赤に変わります。

あにあんぐるっとツアー映像|今津灯台

六角堂

明治15年に今津小学校の独立学舎として建てられた木造2階建の建物です。洋風の近代的な建築で、正面玄関上の六角形の塔屋が当時の人々の目を驚かせました。太平洋戦争の戦禍を免れ、小学校の敷地内で校舎建替などに伴い何度か移転された後、現在の「酒蔵通り」に面した位置に移設されました。小学校校舎、今津公民館、今津幼稚園と用途を変えて来ましたが、現在は今津小学校の学舎に戻り、一部は地域にも開放されています。

ここに次の本文を入力

あにあんぐるっとツアー映像|六角堂

宮水発祥之地

天保8年(1837年)、一説には天保11年(1840年)、櫻正宗の六代目蔵元であった山邑太左衛門(やまむらたざえもん)が摂津国西宮(現兵庫県西宮市)で発見したとされています。山邑太左衛門は西宮と魚崎(現神戸市東灘区)で造り酒屋を営んでいましたが、双方で造る酒は、他の工程をすべて同じにしても味が異なりました。

西宮で造る酒の良質な味の原因について、彼は『同地にある梅ノ木蔵の「梅ノ木井戸」の水にある』と結論しました。これを以て「宮水の発見」としています。

当初、「西宮の水」と言っていましたが、やがて略されて「宮水」と呼ばれるようになりました。

以後、灘の酒蔵は競ってこの地の水を使うようになりましたが、井戸を掘っても同じ水脈に当たらない酒蔵もありました。

そのため、造り酒屋でなくても井戸を掘れば同じ味の水が出る地域の農民らが、井戸を掘り、そういう酒蔵に宮水を売るようにもなりました。西宮に特有のこの商売をさして「水屋」といいました。

あにあんぐるっとツアー映像|宮水発祥之地

満池谷

墓地にはその街の歴史が刻まれています。古い墓碑には明治十年。ここは少なくとも明治の初めからありました。

このあたり一体は江戸時代まで雑木林で、満池谷というように東西が少し高くなっています。

墓地の東北隣の町は「六軒町」と言いますが、江戸時代に六軒が開拓に入り、それが今に続く町の名になっています。

「火垂るの墓」にでてくる、神戸大空襲で焼け出された野坂氏とその妹の2人が身を寄せた親戚宅は、公園近くの満地谷(まんちだに)地区にありました。またアニメ作品では、満池谷の北にあるニテコ池と防空壕が描かれました。小説を通じて「戦争を忘れないで」という思いが形になり、2020年6月に西宮市で初の文学碑が建てられました。それが「火垂るの墓記念碑」です。

あにあんぐるっとツアー映像|満池谷